「漢文は要らない」8・漢文教育は不必要

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要点

  • 既得権益が存在するため、漢文教育不要を唱えると必ず非難される。
  • それでも教育内容は時代と共に変化するものであり、取捨選択が必要である。

漢文教育は要らないと書けば、絶対に批判が出てくる。変化を求めるようなことを言えば常に批判は出てくるが、この論点にはそれ以上の問題も存在する。それは漢文で飯を食っている人がいるからである。漢文教育がなくなれば、そのような人たちは職業を変える必要に迫られる。つまり、彼らが持っている既得権益が奪われるため、漢文不要論のような意見は徹底的に非難される。

つまり、このような不要論を唱えるといつでも批判されるわけであり、批判の内容はともかく批判の存在自体を意識しても仕方がない。ただし、ここは重要な論点でもある。既得権益の全てが悪いわけではないが、少なくとも、全く意味を持たない勉強を中高生に強いることに何の意味もない。

時代の変化と共に学問体系は変化していく必要がある。

漢文教育は単なるレガシーに過ぎない。それもかなり古いレガシーであり、江戸時代において漢文は武家の素養であった。それが明治時代にも残され、そして依然として現代にも残っているだけである。しかし、封建時代の統治思想としての朱子学の有用性は長らく否定されており、漢文教育の柱が消えている状態である。

それに加えて、全ての古い典籍は現代文訳が読める時代になっており、漢詩に至っては白文で読んだ方が良い。つまり、日本で漢文を教育する意義は現代的には全くなくなっている。武家が主導する世界が終わった段階で、本来的には漢文教育も不要になっていたが、それが完全に不要だと理解されるまでに更に時間が必要だっただけである。

本当に中国の典籍の原文を読みたければ、中国語を勉強すれば良い。初級の中国語さえ分かれば、漢文は白文で読めるようになる。それに加え、註釈がなければ意味が分からないのは中国人も日本人も同じである。どうしても中国の古典を勉強したければ、現代文訳を使えば良い。

問題は漢文をどうするかという所だけにはない。学生が学べる範囲には限度があり、新しい科目が増えれば古い科目は削る必要がある。あるいは、学習内容は常に合理化されていく必要がある。

現代において新しい知識の追加が止まったわけではない。新しい考え方も存在すれば、基礎的に勉強しなければならない領域も存在する。中高生の学習する内容を無限大に増やせないのだから、どうしても学習課目を取捨選択する必要がある。そして、漢文は現代において、学習する必要性は全くない。

まずは隗より始めよ、そもそも、この言葉を漢文の原文で読む世界ではなくなっている。

 

7 thoughts on “「漢文は要らない」8・漢文教育は不必要”

  1. コメント失礼します。
    8回のシリーズ、全て読ませていただきました。
    ただ、非常に申し訳ないのですが、
    私は貴方の考えにおおかた賛同できませんでした。

    漢文不要論は実際多く聞きますし、
    私も漢文教育を義務教育の段階で行うことには反対です。

    しかしながら、漢文教育を大学や大学院で行う意味の否定や、漢文を訓読する意味の否定には反対ですね。

    長くなったので一旦切りますね。
    携帯から打っているため、続きはこれから整理してから書きます。

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  2. 「漢文は要らない」1より。
    「現在において、中国の古典を読みたければ、現代文だけで十分な状況にある。つまり、わざわざ漢文という形を取って知識を吸収する必要性は全くなく、中国古典の現代文訳を読めば良い。」以上抜粋

    この点に関して、まず大きな疑義を持っています。
    日本古典においても、現代語訳の全くない文章はありふれていますし、仮にその文章を読みたい人がいれば、その人自身、もしくは代わりに誰かが先駆けとなって現代語訳に訳す必要性が存在します。
    これはまさしく中国古典にも同じことが言えますよね。

    つまり、昔の文章を読みたい人が過去にいたから、
    訓読という日本人にとって少しでも読むのが速くなるツールを使い、訳したまでです。
    訓読という方法は言ってしまえば日本人にとって中国文学を楽に読みたい、ただそれだけの読解ツールでしかなく、だからこそ義務教育では確かに必要はありません。なぜならばもう既に訓読は誰かによって為されており、その文章に興味があるかないかに関わらず、半ば強制的にさせられる実態があるからです。

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  3. 2、3に関しては、全く賛成しています。
    日本古典を訓読する意味は全くないですし、私もわざわざそんなことはしません。
    中国古典の発音に関しても、漢詩ではなく漢文の世界であればこれはおっしゃる通り、中国古典の読解に発音は全く必要ないです。

    さて、4については最後の部分だけが私と考えが違いますね。先に述べたように、訓読は未だ読まれていないものを読むためのツールなので、史記や論語などには必要ありません。これは確かです。
    しかし前述の通り未解読の文書を読みたければそれなりの知識を必要としますので、訓読というツール自体の価値は存在します。
    訓読というツールを使わずに読もうとすることははっきり申し上げて無謀です。それは中国の古典がまとまったサイトを覗き、数ある文書の中から未解読の文章を見ればよく分かると思いますし、仮に貴方が中国語にいくら精通していたとしても瞬時に解読するのは不可能でしょう。

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  4. 5について。
    文章途中までは賛成です。
    ただ、後半部分からは話が違います。
    今や誰も漢詩を作ったりしないというのは誤りです。
    私は漢詩を作ろうと勉強中の身ですから。
    誰も作らない、という全否定は
    私がいる以上できません。

    6、7に関しては賛同しております。

    8に関して。
    半分は賛成、半分は反対ですかね。
    1 初級の中国語だけでは漢文はどうしようもない
    中国の方にお願いして、この2ページの未解読の漢文を読んでくれませんか、とお願いしたら恐らく100人頼んでもだれも読めないです。

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    1. 中国人がどれくらい古典を理解しているかは百家讲坛を見れば分かると思います。仰る通り、普通の中国人には読めないと思いますが、それは文法の問題ではなく、使われている言葉に注釈が必要だからです。

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      1. 返信ありがとうございます。調べてきました。現代中国語については全く当方詳しくないので、そちらの書物を読むことはかないませんが、現代中国人は文法が分からないから漢文を読めないのではなく、使われている言葉に注釈が必要だから読めないということは賛成です。
        しかし、radiohackedさんがおっしゃるような漢文の訓読法の不要論に直結するかどうかは正直全く別の話ではないかと感じます。

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  5. まとめると、いろいろな考え方があって当然だとは思いますし、漢文については不要論も根強いのは十分承知しております。そのうえで、単に「義務教育から削るべき」科目はすべてレガシーとして不遇な扱いをしてよいかは疑問です。たとえ訓読法というものがいくら古臭く、また一般人にとって不必要なものであろうとも、それが万人にとって不必要だとは私は思いません。
    「先ず隗より始めよ」この言葉を訓読する意味はなくとも、先人の遺した言葉の意味とその想いに心を寄せながら、私は漢文とともに何があろうとも生きていきます。
    最後になりますが、長文になり非常に申し訳ありませんでした。
    そして、大変考えさせられる文章を書いてくださってどうもありがとうございました。
    当方、大変勉強になりました。

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