「漢文は要らない」3・漢詩教育は必要か?

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要点

  • 返り点を入れて漢詩を読む意味は全くない。
  • 現代の日本において、漢詩は特別な位置を占めていない。

漢詩が必要かどうかにはいろいろな論点がある。その中でまずはっきりと言えることは、漢詩は返り点を入れて読むものではない。少なくとも白文で十分で、漢詩をそれ以上に分解するのは無粋である。

それを説明するために、実際の漢詩を見てみる。WIKIに李白の有名な五言絶句があったので、それを以下に引用してきた。

白髮三千丈

縁愁似箇長

不知明鏡裏

何處得秋霜

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%99%BD

これは晩秋に鏡を見て、自分が年を取ったことにハッと気づいたことを歌っている。この漢詩の解釈はいろいろ成り立つだろうが、それ以前に、この歌に返り点を振っても全く意味がない。

この歌の良さはこのまま読むところにある。それに、これだけ短い漢詩に複雑な文法は使えない。初級の中国語文法がないと意味は分からないが、それだけあれば、この漢詩は楽しめる。

漢詩をこのまま読むのであれば、次に発音体系をどうするかという問題が起こる。例に挙げた漢詩で言うと、「丈」、「長」、「霜」は韻を踏んでいる。現代の中国語ではそれぞれ「zhang」、「chang」、「shuang」と発音する。これが音読みでは「ジョウ」、「チョウ」、「ソウ」になり、やはり同じように韻を踏む。

つまり、音読みでもあまり変わらないかも知れない。結局、音読みは一種の訛りのようなもので、読めないことはないし、漢詩を楽しめないこともない。ただし、「箇」や「裏」は日本で使われている用語法とは違うので、やっぱり初級の中国語文法だけは必要になる。

一方で、これに返り点を入れて読んでも全く意味がない。「不知」に返り点を入れて「知らず」と読む必要性はないし、それでは漢詩が楽しめない。つまり、漢詩を勉強するためには漢文教育が必要なのではなく、初級の中国語文法が必要になる。

それよりも根本的な問題は李白や杜甫を覚える必要があるのかという点にある。

栄枯盛衰はあったものの、奈良時代以降、漢詩は上流階級の嗜みであった。日本人の漢詩は下手だと言われるものの、それでも作り続けていた。漢詩を作るためには古い名作を読む必要があり、それを模倣する必要があった。だから、漢詩は漢文教育の重要な柱であり、今でもそうなっている。

しかし、今や誰も漢詩を作ったりしない。李白や杜甫は完全に異国の詩人のままであり、ホメロスやワーズワースと変わらない。詩という観点において、李白とホメロスを比べることに意味はあるかも知れないが、漢文教育として勉強することには意味がない。

中国の歴史において李白は偉大な詩人であり、それは未来永劫変わらない。一方で、西洋という観点の中ではホメロスはもっと偉大かも知れない。つまり、外国の詩作を理解するという意味において、杜甫やシェークスピアを同列に比較することには意味があり、漢文として抜き出しても仕方がない。

その際において、漢詩を音読み・白文で読んでもそれほど大きな影響はでない。返り点を付ける漢詩は無粋すぎて意味が分からない。