「漢文は要らない」1・不必要な理由

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要点

  • 現代において、漢文の返り点を覚える必要性はない。
  • 中国古典は現代文で読める時代になっている。
  • 漢詩は漢文教育の論点の一つだが、少なくとも白文以外で読んでも意味がない。

これから何回かに亘って、どうして漢文教育が不必要なのかを議論していく。その中で大きな要点が幾つかあって、それを三つにまとめると以下のようになる。

  • 現代において返り点を覚える必要性はない。
  • 初級の中国語文法が分かれば、中国古典は白文で十分である。
  • 漢文教育は過去の遺物であり、教育科目として入れ替える必要がある。

これらを議論する上において、まずは返り点を勉強する必要がないというポイントから始める。漢文に対してレ点や一二三点等の返り点を付ければ、原文が訓読できるようになる。それが返り点であり、日本における漢文教育の重要な柱になっている。

ただし、本質的には返り点に意味があるのではなく、対象となる漢文の方に意味がある。つまり、日本人が返り点を付けたのは中国の書物が読みたいからである。中国の古典には多くの知識が詰まっており、昔から日本人はそれを受容してきた。史書からは歴史の教訓を抜き出し、四書からは儒教の思想を学んでいた。それに加えて、昔の日本の上流階級においては漢詩が普遍化していた。

この点において、現代的には大きな差異が存在する。現在において、中国の古典を読みたければ、現代文だけで十分な状況にある。つまり、わざわざ漢文という形を取って知識を吸収する必要性は全くなく、中国古典の現代文訳を読めば良い。

それは中国においても同じである。中国の現代文と古典の書籍には大いなる差がある。中国人であってもただ単に古典書籍を読んで、その意味を理解するというのは極めて困難である。問題は文法にはない。現代の中国語文法は古典の発展系で、より複雑になっているため、より簡易な典籍が難しいわけではない。

一方で、中国古典は現代では特殊となった言い回しを使っているので、語法に対して一定の理解が必要になる。それ以上に古典でしか使わない単語の問題があり、現代文訳の書籍を先に読むか、あるいは註釈付で古典に触れる必要性がある。

この点において、日本の漢文教育も同じようなことが言える。つまり、中国古典用の文法の使い方を理解して、それに合わせて返り点を入れる。それと同時に、独特な単語を註釈で理解する。

つまり、中国の歴史や過去の知識を吸収したければ、中国人と同じようにまず現代文で勉強すれば良い。古典で使われているような単語や熟語も、このような方法論で日本語の中に入れられる。例えば、知行合一という概念があって、その知識をわざわざ原文を読んで理解する必要は全くない。陽明学の考え方としてまとめられている書籍を読み、それを理解すれば良い。

このように書籍の内容を理解してから、中国古典の原文に向かうべきである。それが学問としてしかるべき方向性である。そして、そうなると日本人は原文を読む必要性がなくなる。

漢文教育を止めて変化があるとすれば、漢詩をどうするかという点になる。漢文教育を止めると漢詩は勉強しなくなる。漢詩を勉強する必要があるかどうは後段で議論するが、それ以上に、実は漢文教育における漢詩には根本的な問題がある。

それは漢詩が詩という形態を取っていることである。つまり、漢詩に返り点を付けても全く意味がない。漢詩は白文で読む物であり、中国語が分からなかったとしても、漢字の音読みで読む方が返り点よりも意味がある。つまり、本質的には返り点を勉強には現代的に何の意味もない。