「漢文は要らない」7・日本の古典と漢文

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Michelle MariaによるPixabayからの画像

要点

  • 日本の古典の一部は漢文で書かれているが、白文で読める。
  • 日本で必要な古典教育は漢文の中にはない。

事実として、日本の古典の一部は漢文で書かれている。それは以前に続日本紀の冒頭を引用した通りで、日本書紀から始まって、数世紀に亘って漢文調の正史が書かれていた。その後、日本では正史自体があやふやになって消滅したため、漢文が必要な正史はそれほど長くはない。一方で、それ以外の文章はいわゆる古文体で書かれているため、漢文を覚える必要性自体は最初からあまりない。

それでも一部の書籍は引き続き、漢文調で書かれていた。例えば、頼山陽の書いた日本外史は漢文調で書かれている。つまり、江戸時代においては少なくとも漢文調の文章が書かれていた。それに加えて、候文のように漢文に分類されるような文書もあるため、日本の歴史を勉強するためには一定の漢文の知識がいる。

ただし、これらの書籍は白文で読めるので、漢文教育をする意義は全くない。日本の漢文教育は返り点を入れて訓読することに主眼がある、実際のところ、漢文で書かれた日本の古い典籍を理解するためには、返り点を勉強するよりも初級の中国語文法を勉強する方が良い。そもそも、返り点は複雑な形で中国語文法を教えており、不便な上に、かなり発展性のない学問である。

日本の古典の中には漢文調が存在するものの、ほとんどの書籍は日本語で書かれている。日本の歴史や伝統に触れるのであれば、古文教育だけで十分である。

万葉集から始まって、藤原定家や百人一首を中心に学習するだけでも十分に歌の世界は分かる。そこには漢詩に負けない歌の深さが広がっている。そこから延長して俳句の世界へと繋がって行き、現在でも詩としての和歌の伝統は続いている。漢詩にこの役割の代替を求める必要性はない。

それに加え、日本には伊勢物語や源氏物語のような書籍もある。これらの作品は世界的に見ても古い物語であり、それだけでなく、古代の状況や現代まで続く日本人的感性の基礎が見て取れる。更に、ここから日本の作品群は軍記物や平家物語へと展開していく。あるいは方丈記や徒然草のような随筆もあり、中国古典に負けない広がりを持っている。

日本の漢文教育にはこの部分が欠落しており、現状のままでは意味がない。結局、漢文は外国の知識を吸収するための手段であり、その重要性が時間と共に減衰したということである。

江戸時代までは漢文学習には意義があったかもしれないが、現代とでは考え方に大きな隔たりがあり、その中でも朱子学の有無が大きい。朱子学は封建時代の統治思想であり、今はそれを学習する必要性がない。つまり、現代の漢文教育には最初から肝がなく、外形的な学習だけが続いている状態である。

 

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